「あの、現金100万円、この手で数えさせてください。」
「ちょっと待っててや。」
総務部長は奥のバカでかい金庫のほうへゆっくりと歩いていき、
ツバをごくりと飲み込む若者たちを尻目に、帯封にまかれた本物の札束を5つすぐ持ってきました。
社会人1年目。新人研修まっただ中。
大切なお金を直接預かることがある仕事、1枚たりともかぞえ間違いは許されない。
その練習のために、こども銀行のようなニセ札を毎日毎日、100枚手で数えます。
最初の研修は社内でもたいへん有名で、専用の施設にずっと宿泊し、
体育局のフレキャンをかなり厳格化、長期化させたようなシゴキの特訓。
もし同じ班の誰かひとりでも、1秒でも遅刻したりしようものなら、
連帯責任で正座させられみんなの晒し者にされるなんてまさに朝飯前。
「学生と違って、お金もらって勉強しているんだぞ!」
やせ型で神経質そうで、銀縁のメガネのこれまたよく似合う教官が、腰に手をあてて怒鳴る。
体育局出身だと、別にどうってことない、ごく普通の研修ですが、
だらしない学生そのまんまな気風の新人もなかにはどうしてもいるわけで、
叱られて当然だろうと思う局面の方があっとう的に多いのも事実。
外部委託のインストラクターの先生、例えばマナー講習とかダンス練習とか。
そういう方たち以外の指導者は、例外なく全員スパルタ型。
なので100枚数えるのも、有無をいわさず、コピーされたニセ札でやりました。
地獄の施設内特訓を修了し、今度は実際の仕事場での、第2段階へと進みます。
しかし基本、スパルタ式は変わりません。
みんなが机を並べるフロアでは、罵声に近いような業務指示が容赦なく飛び交う。
4~5人単位で各店舗へ配属されたのがせめてもの救いだったといえましょう。
「ハイ!」としか言ってはいけないような雰囲気が、ここでも隙間なくギッシリ。
ちらほら、「あいつ辞めたってよ。」という噂も、口づてに入ってきて。
でもどうしてでしょう、そこの店舗の別フロアの総務部長だけは、オーラの種類が異なっていました。
何というか、普通に話しかけることができるというか、心の距離がものすごく近いというか。
もちろん軽薄な態度や言動なんて論外ですが、仕事に関することならストレートに言えました。
年齢は50代、メタボリックまではいかない丸みを帯びた体型、にこやか型。
この人の指導カリキュラムにも、お金を間違いなく数えるという項目がありました。
そこで、強い願望にかられます。外に出たらナマの現金を数えるんだから、
緊張しないようニセモノなんかじゃなく、ホンモノの触感をぜひ味わっておきたい。
そんな無邪気なお願いごとを、ガチガチの新入社員相手にすんなり聞いてくれました。
同期同グループの仲間たちも、「おぉっ!」と声を出さずに反応しているのがはっきりわかりました。
あとで知りました。 この部長は、オリンピック選手のお父さんだってことを。